◆  歌舞  ◆  真名璃編 03


「真名璃。少し離れてて」
「うん! 兄さま、早く早くっ」
 苦笑は兄さまの優しさ。
 わたくしは期待で膨らむ胸を押さえ込むように手で締め付け、舞う瞬間を待った。
「これより、我が最愛の妹君たっての願いによって、私、舞を舞わせていただきます」
 どこまでも真剣な響き。わたくしだけの舞台っ!!
 それが嬉しくて堪らなくて、つい、手を打ってはしゃいでしまった。
 兄さまは笑みながら普段の顔に戻ると、
「こんな風に言ってからしないと駄目だよ?」
 と、わたくしに言った。
「もうっ。兄さまっ! わかってるから、そんなこと言わないでっ!」
「ごめんごめん。つい・・・」
 兄さまは笑みを禁じえない。
 笑みの、耐えない兄さま。
「舞うね」
 短い一言。
 即座に変わる、兄さまの表情。
 これが、芸人の顔。
 どこまでも静かで、そのくせ奥に秘めた激情が見え隠れする。
 手が舞う。
 指先までぴんと伸ばした姿勢で、着物が美しく曲線を描く。
 綺麗・・・。
 目に鮮やかなそれは、夜闇の中でも、十分に目を惹く。
 しなやかな髪が一房、揺れて跳ねた。
 呼吸ひとつ出来ないような、でも、軽やかな緊張感。見る者を惹き付ける、穏やかな横顔。
 あっと思う間もなく、後姿。艶やかで香り立つような瞬間。
 どこか遠くに馳せた目が、想いを馳せている乙女のように見えて、純で甘やか。
 恋する乙女しか知らないはずの切なさに身悶えるような、寄せた眉が、激しく心を揺さ振り・・・。
 兄さまは、白拍子になった。
 くるりと振り返った顔は鬼のよう。
 悪鬼ではないが、何か暗いものを秘めて、鬼へと化した、人間のよう。
 憎しみと愛情の区別さえ付かなくなった獣であり、でも、清浄な空気を纏った仙女にも見えた。
 その深い眼差しが、ふっと消えると、後にはもう、ふわりと微笑む兄さまが居るだけ・・・。
「・・・どうだった? 真名璃」
 兄さまの舞なんか見ても、面白くもなかっただろう? と問い掛ける眼差しが・・・もう。
 春先の花にかかった露のような・・・清清しくも、甘い・・・何か。
 誰にも真似できぬような、その姿態が、全て。
 ・・・わたくしの、兄さまだった。
「・・・すごい」
「え?」
 無意識に、魅せられたように出たのはその一言だけだった。
「兄さま、綺麗だったわっ」
 衝動的に抱きつく。甘える小動物のように、一人では生きていけぬ幼子のように。
「はははっ。ありがとう」
 抱きとめてくれた腕は、細く、しなやか。
「真名璃に誉められると嬉しいよ」
 囁く声も言葉も、塗りたくられたように甘くて。わたくしには、甘すぎて・・・。
 わたくしは、もう駄目だと思った。
「・・・・・・ね」
「え? 何だって?」
 兄さまは、本当に、綺麗ね。
「ふふ。何でもないの。あのね、兄さまってすごいのね!」
「そうかな?」
「そうよっ! だって、歌だけじゃなくて舞もあんなに見事だったなんて、誰が想像できるでしょうっ!?」
 照れているのか、笑いを堪えるような振動が、密着した体から伝わってきた。
「兄さまだけよ! こんなにすごい人はっ!!」
「真名璃・・・。そんなことないよ。兄さまなんて、まだまだだよ。宴には兄さまなんか比べ物にならないくらいすごい人がたくさん居るんだよ?」
 わたくしが世間知らずだと思って、遠慮しているのね。
 なんて、謙虚なのかしら。
「それじゃあねえ、わたくしの知っている中で、一番綺麗ですごい人だわ!!」
 それには応えてくれた。
「それは光栄だ。ありがとう、真名璃」
 優しい兄さま。どこまで優しいのか、試してみたくなる。
「ねえ、ねえ、兄さま」
「ん? なんだい?」
 こっそりと、耳に直接囁くように、手を当てた。
 くすぐったそうに震える兄さま。
「なんだい? 言ってごらん?」
 楽しそうに催促する。
「あのね・・・」
 兄さまの歌が、聞きたいの。
 ほう、と息が漏れる・・・幼いわたくしの。
 兄さまは、熱の浮かされたようなわたくしを見て、真名璃には敵わないよ、と小さく言った。
「じゃあ・・・!!」
「いいよ。今日は特別だ。でも、小さい声でしか歌わないから、耳を澄ませていてね?」
 否、と言うはずがなかった。
 一も二もなく頷いた。
 期待に満ちた目で見ていた所為だろうか、兄さまは今度は本当に照れたように目線を逸らせた。
 何を恥ずかしがることがあるの。
 兄さまの自慢の歌なのに。
 ふと、可笑しく思ってしまってから、やっぱり兄さまが好きだ、と強く思った。
「・・・恥ずかしいなぁ。真名璃に歌って聞かせるなんて・・・」
 遠い昔はそれほど珍しいことではなかった。
 むしろ、日常茶飯事と言ってもいいほどだった。
 父が母が皇帝さまが、それを奪ったのだ。でも、文句は言わないでおこう。
 宮廷では綺麗な兄さまが見れたのだから。
「真名璃。目を、つぶって? ・・・そんなにこっちを見られたら、なんだか気恥ずかしくって歌えないよ」
「だって、兄さまに歌ってもらうの久しぶりだから」
「・・・それもそうだね。じゃあ、二人で歌おうか?」
「嫌。兄さまの歌が聞きたいの」
「それを言ったら、兄さまだって真名璃の歌が聞きたいのに・・・」
「今日は兄さまが歌って。そうしたら、明日、わたくしが歌ってあげるから」
「・・・真名璃は最近、世渡りが上手になったね」
「兄さまは"真名璃には敵わないね"って、よく言うようになったね」
「・・・これだから」
 くす、と滑った声の後に続くのはやっぱりあの台詞で。
 わたくしは幸せでいっぱいになった。
「ねえ、兄さま。歌って」
 枝垂れかかって頬を押し付けた。
「わたくし、目を閉じているから・・・」
 そして、目を閉じて見せた。
「うん・・・」

  行き場のない思いは どこに溜まるのか

  自然と溢れ出すこの思いを あなたにどうにかできるわけもなく

  誰にも言えずに 誰にも隠して

  それでも 近づければ それでいいなどと

  戯れに等しい 思いを この胸に隠す ―――― 

 兄さまの小さな声が、微かに響く。
 小さな振動が、胸を大きく揺るがす。
 せつない、おとなの、うた。
 わたくしは最初、兄さまの澄んだ歌声をうっとりと聴き、そしてその余韻を味わうように噛み締めた。
 大きな呼吸、ひとつ。
 兄さまが続きを歌おうとした時・・・。
「ここか?」
 がらり。
 誰かが戸を開けて入ってきた。
「な、誰・・・!?」
 わたくしは急にとても恐ろしくなって兄さまにしがみ付いた。
 あまりにも美しい兄さまの傍にいて、現実を拒絶していたのかもしれない。
 あまりにも甘美な幻想だったゆえに。
「・・・こ、こう」
「しぃーっ」
 入ってきた青年は、人差し指をさっと立てて兄さまの言葉を遮った。
「は、はあ・・・」
 納得してはいないようだが、兄さまは咄嗟にそれに従っていた。
「兄さま・・・誰?」
「あ、うん。こちらは・・・」
「ただの宴に出ていた貴族のひとりだ。それだけだ」
「・・・」
 いきなり話に割って入ってくると、そう断言した。
「兄さま、本当?」
「え、うん、まあ、本当だけど・・・」
 ひとり戸惑った兄さまの声が、耳に残った。
「それよりも、ええと、その、あなたは何故ここに・・・?」
「うむ。今、犀遠の君が逢引中と宴で盛り上がっている所でな。こう、つい好奇心が疼いたというか・・・」
 そんなものだ。
 貴族の方は偉そうにそう断言した。悪びれた様子がないところが正直な子供を連想させた。
「はあ・・・それで部屋に入り込んで、どうしようと言うのです・・・?」
 兄さまはどこか疲れた様子。頭が痛いのかもしれない。
「う、うむ・・・。それが、恋歌のようなものが聞こえてくるではないか・・・?
 こう、身分違いを強調したかのような、歌詞のが・・・」
「・・・」
 恋歌。
 身分違い。
 その言葉が、胸にこびり付いた。
「だから、その、だな。構いたがる奴らを袖振って宴の途中であるのに抜け出してまで会いたがる人が、どのような女かと思って。その、まあ、好奇心から、だな」
「もう、いいです。わかりました。あなた様はただ好奇心から覗きに来ただけと・・・」
「う・・・。そう言われると痛いが・・・。まあ、そんなところだ」
「・・・わかりました・・・」
 ふう、と兄さまはため息してわたくしと目を合わせた。
 それから、思いついたように青年貴族に問い掛けた。
「あのぅ、私が居なくて宴に支障ないでしょうか・・・?」
「ああ、うむ! そうだった!! お前を呼びに来たんだった!! そうそう、そうだった!!」
 兄さまは、やっぱり・・・とそっと憂いを帯びた顔をした。
 戻りたくないのだろうか。
 宴はお酒が存分に振舞われ、無礼講な場合が多いと聞く。
 兄さまにそんな場所似合わないと、このわたくしでさえ思い伺えるのだから、苦手なのは間違いなさそうだった。
「ほらほら、来い! 皆待っているぞ? お前が居なくては、楽しみが減るとさっきから煩いのだ、さあ、来い!」
「・・・ごめんね、真名璃。兄さまは、行かなくてはならないようだ。だから明日の昼に、また来るね」
 兄さまは貴族の方に引っ立てられるかのように、手を掴まれていた。
「うん・・・、兄さま、いってらっしゃい」
「ほら、来い。さっさとせんか! 早くしろ」
 貴族は酒でも入っているのか、陽気に必要に急かした。
「兄さま、わたくし、貴族嫌い」
 酒の匂いまでしそうで、鼻に皺を寄せてわたくしがそう言うと、
「そうだね、兄さまもだよ」
 兄さまはこっそり笑ってから教えてくれた。
「真名璃と一緒だよ」
 すると兄さまは煩い酔っ払った貴族の人に引っ張られた。
「まだかっ。遅いぞぉ!?」
 そして兄さまを見た後、わたくしを見て、
「小さな姫君。あなたの大事な人を、お借りしますね」
 と面白がるように言った。
 わたくしは嫌よ、貸さないっ、って言いたかったのだけど、兄さまの迷惑を考えて黙っていてあげたの。
 だって、兄さまは大きな溜息を付いて呆れていたのだから。
「じゃあ、また明日」
「兄さま、明日は早くねぇ」
 兄さまは手を振りながら貴族の方に連れて行かれてしまった。
 貴族なんて大嫌い。
 兄さまを探しにきて、わたくしから獲っていくなんて、酷いわ。大嫌いっ。
 不貞腐れたように布団に潜り込んだわたくしは、ぎゅっと目を閉じて黙った。
 兄さま達の足音は、もう聞こえない・・・。




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